色々なことを、気の向いたままに。
事象境界線
スポンサーサイト
--年 --月 --日 (--) --:-- | 編集
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
限界
2006年 11月 24日 (金) 23:27 | 編集
限界を三種類に分けてみると、その内1つくらいは何とか出来そうな気がする。

大きく分けて二つの限界。
・精神的なモノ
・肉体的なモノ

精神的なモノはさらに二つに分かれて
・自分が(勝手に)設定したモノ
・肉体が本能的に危険だと判断する無意識的なモノ

かなと。走りながらふと思う。肉体的な限界はある意味どうしようもなくて、体を鍛えるなどの方法を取らないとその上限はあがることが無い。これが病気などによるものであったら運を天に任せてとしか言いようが無い。

対照的に精神的なモノは比較的短期間にその上限をあげる事が出来る。特に自分が限界だと思っていること。大抵人は自分が設定した限界≠本能的な精神的な限界であって結構余裕があったりする(ここであえて大小関係を示さないのは時にこれが逆転している人もいるから)。本能的なものはそれ以上になると肉体にダイレクトに損傷を与える可能性があったり生きていく上で支障をきたすからそれを回避するため・・・だろうけど、自分が設定する限界はあきらめとか弱さとかそんなところから来ていたりする。きっとみな弱い。

走っていても距離が長くなるとスタート時にどんなに気分が良くても途中で必ずといって良いほどこの「限界」が来る。もうだめだ、走れない、歩いてしまおうか、引き返そうか、そんな考えが渦を巻いて目の前に迫ってくる。これに従うのはとても簡単で易い。でも実は乗り越えるのもとても簡単で易い事なのだと思う。

手品や、科学の問題(数学など)と同じように気がつくかどうかが鍵だと思うんだけど、じゃあいったい何に気がつけばいいのか?そこが分かれば人類みな幸せ苦労は無い。なんとなくだけど、これはかなり個人の考えに拠っているように思える。林檎で気がつく人もいれば蜜柑で気がつく人もいる。林檎に宇宙を見出す人もいれば、同じ林檎を見て神の存在を確信する人もいる。そういうことなのだと、走り終えて「気がついた」。


自分の限界ってどこにあるんだろう?となんとなくぼーっと思う今日この頃。一生懸命やっているっていうのは自分の怠け心がそう囁いているのか、それとも真なる部分から語りかけてくるものなのか。分からないけれど、倒れてしまったらそんな事を考える必要なく肉体的の限界がきたってことだ。それは確か?これさえも、本当に肉体的な限界なのか、それともそう思っていることが無意識にそうさせたのか、それが分からない。

分からないなら試してみればいい。
分かるまで、
何度でも。
何度でも。

只管多座って言葉もあるしなぁ。色即是空、空即是色。
言葉が意味を持たない領域で、それを理解する助けとなるのは言葉であった・・・う~ん、無矛盾な矛盾。全てを内包するものは何も内包していないのと同義なのか?始まりと終わりの旅。その出発点は常に円環の中にあり、終着点も円環の中にある。誰もそれを区別できないとしたら、区別する事に意味は果たしてあるのだろうか。そもそも意味とは何か。人は日常以外の事を考える時誰でも哲学者になれる。例えそれが過去何人も通った道でもはじめて歩く私には新しい。曰く、今あるものは、既に在った。後にあるものも、すでに在った。
Comment
この記事へのコメント


コメントを投稿する
URL :
comment :
password :
secret : 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright (C) 事象境界線 all rights reserved.
designed by polepole...

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。